World IA Day 2019考(1)デザインにおける自由とはなにか。それは、本来とても重い問いだということ

データと自由
by 大橋 正司(インフォメーション・アーキテクト、代表社員)

World IA Day 2019に参加してきました。例年は恵比寿でこじんまりとやっていたのですが、今年は150人が集まり渋谷開催。一気に祝祭感が増したように感じます。一部の方々が「党大会」と言っていた経緯やグラレコは、@hiromitsuuuuuさんが大変分かりやすくまとめてくださっているので、そちらをご参照いただくと、とても分かりやすいと思います。

大変素晴らしいことに映像も用意されています。



私はといえば、ここ最近は毎回実況をしています。そのため、当日は言及できなかった自身の感想などをご紹介できればと思いますが、それぞれ重いので、何回かに分けて感想を投稿できればと思います。

自由とはなにかは、本来とても重い問いだということ

イベント当日には何度か「自由を」という言葉が飛び出しましたが、この自由という言葉はデザイン史を振り返ってみると少々重たい言葉です。

ウィリアム・モリスに端を発する「デザイン」は、産業革命への反発から興ったものですし、人間中心設計やサービスデザインといった私たちIAが持っている武器の(現代的な)源流のひとつである、1970年代のスカンジナビア半島(つまり北欧)で始まった参加型デザインも一方的な経営改革に対する反発から勃興しました。

今私たちが見ている「デザイン手法」からイデオロギーを感じることはほぼありませんが、1960年代〜1970年代当時の参加型デザインは、経営者が一方的に生産プロセスを(新技術の導入などによって)「改善する」傍らで、その改善に翻弄される工場労働者たちの労働運動として、平等主義や社会民主主義などの時代の風を追い風にしながら始まったものだったのです。

つまるところデザインの自由を標榜する以上、タスクベースUIに対するアンチテーゼとしてのOOUI、という視座を越えたレベルで(そして古くはマルクス主義から連綿と連なる、抑圧する側とされる側という現代に続く対立を引き受けながら)それが何に対するアンチテーゼなのか、言い換えればユーザーにとっての自由とはなにかを、常に問い続ける必要があると思っています。

この「自由とはなにか」をより重く考えるきっかけになったのは、昨年のNDLデジタルライブラリーカフェで、ブラタモリの京都編などでよく登場する「京都高低差崖会」の梅林秀行さんの講演をお聞きしたときです。本稿の趣旨からは若干外れるので、要旨の紹介にだけ留めますが、このような内容です。

  • ○ 被差別地域が特定できる昔の史料が日本のデジタルアーカイブではほとんど公開されていない。
  • ○ しかし、実際に当事者に話を聞くと「載せてほしくない」というよりは「そのような歴史があったことを忘れないでほしい」という声を多く聞く。
  • ○ 強い力を持つ者が「弱い立場の者を守る」という視点から、その行動に介入・干渉するのは、当事者の主権と自己決定権を侵害している典型的なパターナリズムではないだろうか。
  • ○ 日本のデジタルアーカイブでは多くの画像が高解像度でダウンロードできないが、それも同様に、「この解像度で十分だろう」という押し付けではないのか。

このとき梅林さんが話題にしておられた史料のひとつ、「改正京町繪啚細見大成」は、海外のデジタルアーカイブでは確認することも高解像度でダウンロードすることもできますが、日本でそのすべての要件を整えたデジタルアーカイブはないといいます。

ユーザーに対して「データを隠す」ことの是非は上野さんも取り上げられていましたが、このような事例を見聞きしたあとでは少しだけ見方が違ってくるのではないでしょうか。データに対し、どのようなアクション=振る舞いを可能にするのか?何が自由を保証するのか?という問いかけの重さを、私たちは忘れてはいけません。

もう少しだけレポートは続きます。引っかかったことをひとつひとつ、何回かに分けて整理していきたいと思います。お楽しみに。