ポスト・デザインシンキング。さよなら、のその前に。

デザインシンキングのイメージ図
by 大橋 正司(インフォメーション・アーキテクト、代表社員)

デザインシンキングは終わった!(あるいは、某地域ではとっくに終わっているのに日本は以下略)という話を最近よく耳にします。この概念にもまた、かつてのバズワードのように墓標を刻む時がきたのでしょうか。

なぜ毎回、こんなことになるのでしょう。新しいビジネスモデルやその開発手法を煽りたてるメディアやインフルエンサーの情報に追い立てられながら、日々、手法から手法へと彷徨い続ける一群の人々。一方で手法が信仰と化し、オルグされている場合もあるような気がします。私たちデザイナーもまた、主義主張で血塗られた歴史を積み重ねなければならないのでしょうか。

デザインをするのもまた人である。
その前提を、うっかり忘れるデザインの専門家たち

ある手法が使えないという場合、その論点には大きく分けて2つあると思います。

  • ○ 手法になんらかの致命的な欠陥がある、または有用性が疑われる
  • ○ 手法が時代遅れになっていて、概念を更新する必要がある

それに対して起きる反論もまた、ある程度の類型化が可能でしょう。

  • ○ 手法の適用方法に問題がある(使い方が悪い)
  • ○ 手法以外のところに原因がある(問題はそこじゃない)

どれもそれらしく聞こえますし、専門家であればひとつやふたつはクチをはさみたくなるものです。しかし冷静に考えてみれば、特に実務家の実践領域において、自分たちが本当は何をしているのかなんて、誰も正確には分かっていないはずです。論より証拠、一番簡単にみえるところから始めましょう。

まずは、机の上に紙と鉛筆を用意して、フリーハンドで直線を引いてみましょう。どうでしょう?引けましたか。大半の方が大して意識せずに、ある程度綺麗な直線が引けることでしょう。続いて鉛筆を反対の手に持ち替えて、同じように線を引いてみてください。両利きの方も油断なさらずに。両手で同時に綺麗に円を描いてみてください。さて、どうでしょう。

恐らく、最初に引いていたほどには、きちんと引けません。直線を引くという一見シンプルな行為にも複雑な身体的操作が求められることが分かります。

外形的に認知されうる形態や営みとその結果のシンプルさに反して、本来的には高度な記号操作や抽象化能力が求められる人の営み。しかし一度習得してしまうと、そのことを意識しなくなってしまう。そんなもので、この世界はいっぱいです。思い出すのは、こんな風に外から強制されるか、突き指でもして利き手が使えなくなってから。

なぜあなたは利き手で直線を綺麗に描くことができたのか。まったく直線を引いたことがない人にも再現可能性の高い「直線の引き方」の説明をしてみてください。

同じような問題は、デザインシンキングを始めとした様々な手法にも潜んでいます。たとえば共感は、やってみるとそんなに簡単なものではありません。(もしみんなにその能力が備わっているのだとしたら、なぜ最もお互いを理解しているはずの夫婦の間に、こうも子育てをめぐって、悲惨なすれ違いが起きるのでしょう?)短時間での深い共感のためには、よく訓練された人類学者や社会学者、心理学者のような眼差しが必要になってしまうことがあるのです。ではそのような専門性を、デザインシンキングを考案した人たちは求めていたのでしょうか?ましてや、それをすべて説明しようと思っているのか。私にはそうは思えません。何もかもを言葉で説明でき、実証できる(あるいはしなければならない)という態度で臨んでいるわけはありません。何事も、何もかもは説明できないのです。

「手法」という言葉は、科学的な裏付けに基づいていたり、厳密性があるような先入観を与えてしまいますが、それがデザイン領域である以上、そこには思想や文化、主義主張が混ぜ合わされています。日本語で仮に他の言葉をあてるのであれば、おそらくは「道」のようなワーディングのほうが、適した態度を取ることができるのかもしれません。

デザイン手法が「道」なのであれば、それ自体を以て「直線の正しい引き方」自体は示せません。ただ、「どんな筋道があるか」は示せるかもしれません。「手法」とは本来、そのような先達者の灯火のようなものであって、厳密な有効性や正しさを常に、過剰に問いかける必要はありません。実際、ユーザを観察するときに、何もかもが説明できるとはあなたも思っていないはずです。しかしそれがこと手法となると、何もかもを説明しなければならないように感じてしまうのはなぜなのでしょう。「ユーザは、自分が何を期待しているのか、何を無意識に乗り越えているのか理解していない」ということを、私たち自身に対して適用したにすぎないのに、そこに反発を感じる、この感情はなにか。人のことは理解できないと分かっているのに、自分のことは分かっていると思っている。そうした傾向からは私たち自身も逃れることはできないのだと改めて痛感させられます。

あるいは私たちは少しでも楽になりたいのかもしれません。わからないことを分からないというより、分かっていたほうが精神的にはいくらか楽です。うわー分からない!どうにか分かりたい!説明できるようにしなければ!そんな欲求の裏返しが、過剰な実証可能性を求める態度なのかもしれません。声にならない悲鳴が聞こえる気がします(気のせいやで)。

イノベーションを期待するときに、最初にその成果に注目してはならない

そして、どのような試みも、そのパフォーマンスに注目している限り、うまくはいきません。手法をどのように自分たちの営みのなかに位置付けていくのかが本質的には問われるのです。そのことを示す例えとしてよく使われるのは、こんな話です。

昔々インドのある街で、立派な寺社を建てる工事が行われ、国中から石工が集められました。作業をしている石工達に、何を建てているのか知らなかった人が尋ねました。あなた方は何をしているのですか?

  • 私は石を切り出しているのです。
  • 私は立派な寺社を作っているのです。
  • 私はこの地に住む人々の祈りの場になるような場所を作っているのです。

どの石工が一番良い仕事をするでしょうか。

図らずもこの話はデザインシンキングの「共感」の重要性を説明することにも重なっていますが、デザイン手法を採用する組織がどのレベルの問いかけ、言い換えればビジョンを立ててイノベーションに取り組めるのかによって、その成果は大きく異なってしまいます。

上記の例では石工という個人を比較するような書き方をしましたが、実際には私達は集団で仕事をしているわけです。現代の事業環境はもう少し複雑で、寺院のような明確な成果が見えづらく、様々な分野の専門や背景を持った人材が協働したチームで行動するようになっています。そうしたチームがパフォーマンスを発揮していく(この場合はイノベーションを生み出していく)上で、そうした問いかけをないがしろにすることはできません。チームが健全に機能しなければ、アウトプットの品質はあがらないのです。

チームの関係性を整えるような試みを「メンテナンス行動」と言いますが、デザイン手法は、その目指すべき方向性や行動原理、行動基準を整えることはある程度できても、なんでも忌憚なくチャレンジし上手に失敗できるお互いの信頼関係(これを「心理的安全性」と言います)なしには機能しません。イノベーションは失敗の連続なのに、失敗を許容できない空気があったとしたら、良い成果なんて、出てくるわけがないのです。

ここでは、MITの元教授であるダニエル・キムの成功循環モデルを紹介しておきます。成功循環モデルは次の図で表される考え方で、組織が結果を出すようになるまでのステップをモデル化したものです。成功循環モデルよれば、最初から結果を求めるサイクルを回し、結果にフォーカスすると、組織はギスギスし始め、関係性が悪くなる。人は防衛的になっていって思考の質も悪くなり、行動の質も悪くなる。結果として更に結果の質は悪くなってしまい、負のサイクルが始まる・・・。

ダニエル・キムの成功循環モデル

デザイン手法の見た目の気軽さや綺羅びやかさに反して、それを機能させ続けるチームの条件は意外にハードルが高いことは、理解しておく必要があります。「忌憚のない話し合い」「質の高い対話」は万人が当たり前にできることではありません。

ユーザの抱える課題に対する共感を通じて、組織が抱える縦割り意識や失敗への恐れをメンバーがともに乗り越えられることはもちろんあります。ただし、それを長期的に機能させ続けようとするときにはデザイン手法だけでは足りない、ということをデザイン手法を導入したい担当者は意識しておく必要があります。

ちょっと暗い書きっぷりになってしまいましたが、冬ですし。多少アンニョイなのもまた季節ということで、ご勘弁くださいませ。

参考

  • Daniel H. Kim, "Organizing for Learning: Strategies for Knowledge Creation and Enduring Change", Pegasus Communications, 2001.